大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成8年(オ)2553号 判決

東京都武蔵野市西久保三丁目二一番八号

上告人

菊川忠夫

右訴訟代理人弁護士

川村武郎

東京都武蔵野市西久保三丁目一八番四号 リヴェール武蔵野五〇二号

被上告人

中村儀一

右訴訟代理人弁護士

石川利男

右当事者間の東京高等裁判所平成七年(ネ)第四二五〇号名称使用禁止請求本訴、損害賠償請求反訴事件について、同裁判所が平成八年九月一二日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人川村武郎の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決の法令違背をいうものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 藤井正雄 裁判官 小野幹雄 裁判官 高橋久子 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友)

(平成八年(オ)第二五五三号 上告人 菊川忠夫)

上告代理人川村武郎の上告理由

第一 控訴審判決には、明らかな結論に影響を及ぼす、法律解釈の違法及び憲法違反の判断が存在する。

控訴審判決は、結果的に地裁判決の大筋を認容し、一審原告の請求を棄却している。しかしながら、次に述べるように、不正競争防止法(以下単に法という)二条一項一号(以下法一号という)の判断を誤っているもので、その結果一審原告の請求を棄却したものであり、破棄を免れ得ないものと思慮する。

さらに、同様に反訴事件については、何ら名誉を毀損する内容を含んでいない、しかも真実のみを記載したビラをもって、反訴原告の名誉を毀損したものとして、反訴被告に損害賠償の支払いを命じているが、これまた我々の経験則を大きく逸脱した判断であって、名誉毀損について積み上げられてきた判決例に照らし、とうてい容認しうる判断ではなく、破棄を免れ得ないものと思慮する。

第二 上告人の主張の骨子

一 周知性について

1 法一号に言うところの周知性の有無の判断は、控訴審判決の言うように、個々具体的事案に即してなされるべきである。そして、さらに需要者に広く認識されているか否かについては、当該営業の種類、態様、取引範囲等を考慮して判断すべきであるとも言う。誠に納得しうる判示である。この様に解しなければ、この法律によって保護される営業が、ある程度の規模の企業に限定されてしまうことになるからである。そこで問題は、共同住宅(共同住宅も営業であることは言うまでもない)の名称、すなわち営業を表示するものに周知性を求める場合、どの「程度」を必要とするか、と言う点に本件の周知性の問題は集約される。そしてさらに、競争者に悪意もしくは重大なる過失がある場合にこの周知性に影響を及ぼすか否かについても考慮されるべきであると思われる。

これらの点についての上告人の主張の骨子は次の通りである。

2 周知性については、次のように解するべきである。その根拠の根本は、現時の経済状況に即して周知性は考えられるべきであり、その場合の周知性の有無の判断の基準はあくまでも共同住宅という営業が有している、機能に着目すべきであるという点にある。

ところで、不正競争防止法で言うところの周知性は、公正な競争下におくことによって実質的に営業の利益を守り、国民経済の発展に寄与するという法の目的に沿う形で定義されるべきは当然であり、かように考えた場合、無差別に一般大衆に知られているか否かをもって、審理の対象となった名称が知られているか否かを考慮すべきではなく、その営業に関係する者或いは利害関係を有する者の間で周知性があるか否かが論じられるべきである。そして、「共同住宅」の名称というものが、他との識別をもっとも重視されるべきである以上、他との識別されるという関係及び関連するものの間で周知性があるか否かが、第一に判断されなければならない、と解するべきである。また、他との識別に問題の存する共同住宅に入居する事を断念するのが皆無であるとはこれ又断じえないところである。以上要するに、本件問題となるべき周知性は、上告人アパートが他の共同住宅との間で識別を必要とする者の間で存在するか否かを判断すべきである。この点に関しては、上告人は次のように主張している。

(1) 平成五年七月五日、本件マンション二〇一号室の住人宛の郵便物が本件アパートに配達された。

(2) 本件マンションに管理人がいないため、本件アパートに、本件マンションの住人宛の引越荷物等の配達場所についての問い合わせがあった。

(3) 本件マンションの住人が、本件アパートの脇の空き地に自転車やオートバイなどを置いた。

(4) 本件アパートの住人を訪問しようとした者が、本件アパートと本件マンションの識別に迷ったことがあった。

そして、従前には存在しなかった、被上告人の名称と混同する現象も実在しているのである。

そうである以上、本件上告人のアパートの名称には周知性があり、被上告人の意図的な同一名称の付与によって損害が生じていることは明らかである。

原判決は、以上の点に関し問題点を正確に把握しているとは言いがたく、不当であり、破棄を免れ得ないと言うべきである。

3 次に、上告人は不正競争者が悪意を有している場合、周知性があるものと見なされると解すべきであると思慮するものである。本法は要するに資本主義社会の根本思想である自由なる競争の実現に寄与せんとするところに、その立法趣旨があるものと言うべきである事は明らかである。だとすれば、不正競争者に悪意、すなわち被競争者の営業を妨害する趣旨で、本件の場合のように命名した場合、明らかに自由な競争を阻害している事は明らかであると解するのは当然であると言うべきであるからである。そして本件の場合、被上告人には明らかに、命名について、自己の大規模共同住宅をもって、小規模である上告人の共同住宅の名称の機能を妨害したものである。仮に、本件の場合周知性に問題があるとしても、被上告人の命名が悪意に基づいている以上、上告人の名称には周知性があるものと見なされると言うべきである。被上告人に悪意があるという所以は左記の通りである。

一般的に、一個人がアパートの名称を決定する場合、相当慎重に自己の気分周囲の地名などを考慮し、決定することは容易に推測しうるところである。だからこそ、命名に関する辞典的なものも存在し、また場合によれば占い師などにも相談して、厄日をさけて決定するというケースすら存在するのである。

上告人もその例に漏れず、一種の思いをこめて本件アパートに名称を付している。そして被上告人も家族で相談し、ネーミング辞典を参考に被上告人建物の名称を決定している。これを、別のケースに当てはまれば、まさに「オーナーにとってご自分のマンションはかわいいお子さんと同じ。素敵な名前をつけてあげたいですね。」(乙第二号証冒頭部分)という意味を有するのである。そして、この命名について考慮する場合、「素敵な名前」と言う前提に加え、その命名者にとって特有のいやなイメージを有する名称、或いは他との混同を引き起こす名称を避けることは当然ではないであろうか。特に、名称というものが他との識別機能を有するという、本来の役割を考慮すれば、他との混同を避けるという点について万全の注意を払うことは理の当然と言うべきである。被上告人において、本件名称に特段こだわらなければならない、と言う事情が伺えない以上(被上告人の言い分によっても、単にネーミング辞典から語呂のよい名称をアットランダムに選択したにすぎないと考えられる)、被上告人がこれらの点について配慮しなかったとは到底考えられず、仮にネーミング辞典を利用したとしても、わずか直線距離にして二〇メートルにも満たない上告人アパートの名称を、一年以上の間知らないまま(しかも家族全員である)、しかも調査すれば容易に知りうるにもかかわらず、同一名称を命名したとするのは、命名にあたっては、何はともあれ識別機能を通常考慮するという点からしても、誠に不自然極まりないと言うべきである。

さらに本件名称が偶然にも一致する事は確率的に有り得ないと考えるべきである。被上告人の主張するように仮にネーミング辞典から名称を選択するとしてもこれがアットランダムな選択である以上、その確率は、辞典に一〇〇〇の名称が記載されていれば、本件名称が選択される確率は一〇〇〇分の一である。さらに、一〇〇〇の名称から二名の者が同一の名称を選択する確率は、一〇〇〇分の二乗分の一という確率となる。名称が一致する確率は途方もなく低いと言わなければならない。(なお、被告上告人が使用したと思われるネーミング辞典の候補名称の全記載数は、到底一〇〇〇の数字には収まらないことを一言しておく)

本件名称が偶然一致したという主張は、不自然極まりないと言うほかは無いのである。むしろ有り得ないと考えるのが自然と言うべきである。そして唯一考えられる命名の動機は、建設に反対していた上告人のアパートに対して、自己の計画がより大規模であること、より表通りであること、という優越的建築及び立地条件を利用し、容易に混同する名称を付すことによって、常識的に容易に考えられる識別について、優位にたち、上告人の営業を妨害することによって意趣をかえさんとしたものとしか考えられないのである。

以上のように、本件名称が偶然一致したとするのは誠に不自然であり、到底考えられ得ないのであり、一審判決のいう「被告も知らなかった」から周知性に欠けるという論は根拠を失うと言うべきである。

4 以上のように、上告人の本件名称には、周知性が存在するものであり、法によって保護されてしかるべきである。

しかるに、二審判決は一審判決を認容し、上告人の請求を認めていない。この結論は、以上のように、周知性についての誤った法解釈を前提としているものであって、この点の誤りが存在しなければ結論が正反対となったことは明らかである。

よって破棄差し戻されるべきである。

二 予備的請求について

前記3で詳論したように、被上告人が悪意をもって同人の共同住宅の命名をなしたことは明らかである。さらにその前提として、自己の共同住宅について命名する場合、近隣の名称に影響を及ぼすものの混同を避けるため、ごく近隣内に同一の名称が存在しないことを確認して、命名すべき注意義務があることは、不正競争防止法とは別の観点から、民法の原則(七〇九条)として認められてしかるべきである。

これらの点についての、上告人の主張の骨子は以下の通りである。

上告人は、平成四年四月二八日、その肩書地においてリヴェールと言う名称の二階建ての賃貸アパートの営業を開始した。

被上告人は、上告人の右アパートから直線距離にして二〇メートルも離れていない場所に平成五年五月から建築を始めたマンションに、建築中から両建物の誤認の可能性が強いので、名称を変更するようにとの繰り返しの申入れにもかかわらず、前記の上告人の名称と同一の名称であるリヴェール・武蔵野と言う名称を付した建物を建築し、その変更をなすことなく今日に至っている。

共同住宅の名称は他と識別しうることを最大の機能としているものであるから、共同住宅を建築するものは、少なくとも建築建物の近隣について同一名称の共同住宅が存在しないことを確認した上で、自己の共同住宅の名称を命名し既存建物の名称との混同をさけ、無用の混乱を避けるべき注意義務があるにもかかわらず、被上告人はこの注意義務を怠るか、もしくは故意に上告人の共同住宅と誤認せしめる名称を、あえて命名するという違法行為をなした。

上告人の建物は、被上告人の建物と誤認された結果、前記のような混乱をもたらされ、事実思いをこめて命名した名称を、必要もないのに変更しなければならない状況においつめられている。このことによって生じた上告人の精神的苦痛は誠に強いものがあるが、被上告人はこの上告人の損害を賠償する義務がある。

以上のように本件は法の保護の対象とならなくても、上告人に悪意が存在する以上、民法七〇九条によって、上告人の請求が認められるべきであった。しかるに原判決は、この点に関する判断を誤り、請求を棄却した。この判断は明らかに我々の経験則に反するものであって、破棄されるべきである。

三 反訴請求について

上告人のビラは、第一に名誉を毀損する指摘はなく、従って、そもそも損害賠償の対象になるべき事例ではない。しかも真実のみを記載したものである。仮に名誉を毀損するような内容が一部含められているとしても、これが損害賠償の対象になるべきか否かは、その動機、経過、ビラの内容が総合的に判断され、憲法で認められた言論の自由を毀損する結論とならないか慎重に判断されてしかるべきである。この様に解した場合、本件ビラは上告人の当時としてなやむを得ない、動機による、しかも上告人のきわめて挑発的な行動に触発されて撒かれたものであって、言論の自由の法理によって保護されるべき範疇の内容である。しかるに原判決は、これに違法性を認め、損害賠償を命じる結論を容認したことは、憲法に違反した判断であり、民事訴訟法三九四条に違反し、破棄を免れ得ないものである。

第三 結論

以上のように、上告人の請求を退けた点は、違法であることは明らかであり、それが我々の経験則に違反している以上、法の解釈を著しく誤り、かつ憲法に反している判断であって、破棄を免れ得ないものと思慮される。また、本件ビラに対して損害賠償を命じる結論を命じた点は、憲法に定める言論の自由を侵害するもので、憲法に反することは明らかである。

以上の次第であるので、原判決は破棄を免れ得ないものと思慮し、本件上告に及んだ次第である。

なお、本人の意見については意見書として本書に添付する。

以上

意見書

私としては、専ら法律以前の問題及び「法」の周辺部に焦点を合わせることにする。この場合、「独立の法廷」である筈の控訴審が、遺憾ながら原審のそのままの延長のような形で進行したことに、私は大変不満であるから、その辺のことを含めることになる。但し、この一文は何よりも、御多忙な最高裁判事に最後まで読んで頂くことを目的とするから、簡便のため若干の諺や比喩を交えて私の主張の輪郭を示すに止めることを予めお断りしておく。

『皆さん、こんなことが許されてよいでしょうか

下級審の判決は、故事にいう「白い馬を黒くし、黒い馬を白くする」という奇妙な論法に依拠している。裁判長は「自然の光」に照らすことをせず、恣意的ないくつかの偏向を使い分け、私には「黒い光」が当てられた。何故こうなったか?私が相談した法律家のほとんど一致した見解は次のようなものである。―それは私が自らの信条に基づいてある種の答弁を拒否したため裁判長の「心証」を著しく損ねたためである、と。こうして当該の裁判長は「法の精神」を逸脱しほとんど「悪意」に近い「私情」によって私を裁いた。その結果、私の本来の主張は歪曲されて否認され、逆にこの種の事例で、前代未聞の百万円(控訴審七〇万円)という高額が課されてしまった。こういうことは憲法が保証する「公正な裁判をうける権利」にそむき、天賦の人権である「信教の自由」や「言論・表現」の自由を侵害するものと言っても過言ではない。ここに日本の裁判所の陰険で古い体質が垣間見られる。私は言論界と市民運動の力でこういった法曹会の歪みにあくまでも挑戦していくつもりである。皆さんの御一考をこう次第である。(文責)菊川』

右の一文は、慰謝料百万円という当該の「ビラ」と同じスタイルで記めたものである。もし、これを「ビラ」として若干名に配付したら、当該裁判長に対する「名誉毀損」となるのであろうか?それは「公益」を目的としていないから「毀損にあたる」というのが下級審の判断であった。ところが、右の意見は触れておいた如くに決して個人的例外的なものではない。「国民感情」のレベルでは「多分そうだろう」であるが、多少とも裁判所の実情を喧々した物からすれば「それに違いない」という風になる。だが、下級審はこの「悪意の証明」部門に故意に均衡を破る程に高いハードルを課した。ところが、そもそも厳密な意味で「悪意の証明」などということは存在し得る筈はないのである。自分が不利になることを承知して「悪意でやった」と自認する人はいない。従って若干の基本的事実と状況的証拠から確率論的に認定する以外はない。それにもかかわらず、その種の懐疑論を貫こうとするなら、その立場自体の明証性が問われなければならないし、またその同じ主張は他の全領域にも等しく適用されねばならないから判決そのものが無効となってしまうだろう。

右のような『文面』が名誉毀損に当たるかどうかの基準は、その「字面」を取り上げるのではなく、事実との照応関係を中心として判断されるべきものと思う。従って、事実との照応関係を中心として判断さるべきものと思う。従って事案や状況との照応を無視した「判決」は偏向であり不当である。なお、私が「答弁を拒否」した事項とは、主として原審を指すのであるが、私の職業と地位に関する裁判長からの質問で「それは本件と全く関係のないことで答える必要を認めず」と私が述べたことを言う。(また控訴審における「拒否」とは裁判長が提示した折角の「和解案」を―それは原審の立場を引き継ぐ案と思われたので―私が拒否して不興を買ったことを指している)「この時裁判長が色をなして怒りを顔面に表した」ことは、その時の書記が覚えていて証言してくれるかも知れないが、「主観的判断」とされてしまうだろう。だが、次のような紛れもない事実は一体どう解釈すべきであるか―私の職業と地位に関する裁判長とのこのやりとりが「公判記録」から見事に削除されているのだ!更に「それならこのようなビラをあなたが勤務している職場にまきに行く」といったくだりや、「ビラ」の中の言葉は諺であって、この一語を切り離すのは不当でせめて「ぬすっと」と発言して欲しい旨の発言を私が再三にわたって繰り返したくだりも、削除(省略)されている。こういうことは公正であるべき記録にも加えられた重大な不正である。これでは当該の裁判長にとって都合がわるく後日争いの「火種」となるような箇所を予め意図的に省いたものと言われても仕方がないであろう。また原審の判決に付された五枚のビラに関する既述と配列は、その全部が間違っているのだ。なお、控訴審の判決では、若干の訂正が加わったが、上記のような重大な事項の訂正はなく、僅かに「リヴェールReve r夢見る」という訂正箇所がある。これは「リヴェール」という名称がヨーロッパ語で使われているポピュラーな語だということを宣伝する意図を持つものであろうが、これは大変滑稽な間違いなのである。「夢見る」はフランス語でReverであり、その日本語音記は「レヴェ」である。そしてその変化の範囲はせいぜいReve r(se)レヴール(ス)どまりである。つまり「リヴェール」というポピュラーなヨーロッパ語はどこにも存在しないのである。たとえそれが「ネーミング辞典」そのものの誤植だとしても、そのような語を「辞典」から二人の人が選択する確率は多く見積もって一〇〇万分の一である(千語基準)、そして「判決」はその百万分の一の方を正しいと「思い込」んだのだ。しかも私は「名称の独占的使用」など一度も主張したことはないし、今後も主張する積もりはない。至近距離で混乱や迷惑が生じるような悪意による選択に、異を唱えていたのみである。

以上のことを次の三項に要約することにする。

(1) 至近距離にあるマンションが同じ名称を含むということは、当事者に精神的不快感を与え、当方のアパートの居住者に各種の迷惑をかけているのみならず地域社会における実際上の便宜を損なっている。(公益侵害)従ってこのような事態を引き起こした行為は「不正競争防止法の精神」にもとり、かつ「公序良俗の遵守」および「アメニティの権利」などを侵害するものである。

(2) このように本件は、いわば「教会領域」におかれたものであるから、たんに「営業妨害」(狭義)の問題といった部分的判断にもともとなじまない。従って「公序良俗」とか「地域的公共性」とか「アメニティの権利」といった多次元的な全体的判断によるべきである。

(3) 右のような緊急に起こった事態の中での「ビラの配付」は、天賦の人権である「言論・表現の自由」のやむを得ない行使であって、その状況と内容に照らして「名誉毀損」には当たらない。そもそも社会的改善を要求する場合、誰かの何らかのプライバシーや名誉が傷つかなかった事例など歴史上存在しないのである。従って、基本的人権の全体系の中に正しく基礎づけられていないような「名誉毀損の独り歩き」は是正されねばならない。

通常の状況下では、私の主張は右の三点にほぼつきる。だが、冒頭で述べたように、本件は法の源泉にかかわり、かつ法律以前の問題を含んで複雑にしている。操り返すなら「判決」は裁判長の偏見を出発点とし、私の側に最初から「黒い光」があてられた。従って私の主張は、「(名称)の盗用と思い込」み「公共の利害」や「公益」に関係せぬもので「名称の独占的使用」につながる主張である。などと一方的に決めつけられてしまった。

他方、被告に対しては最初から「白い光」が当てられ、「知らずに」「使用した」「知っていたとは認められない」などと確率が零に近いことまでも恣意的に判断した。これはもはや公正な裁判とは到底見做し得ない。住民感情を完全に無視し、状況的証拠を軽視し、確率の審級(度合い)を逆転させた恐るべき偏った判断である。一体「名称使用の利害を侵害した・・・行為ということはできない」などといった結論がどこから導き出されたのか全く理解に苦しむ。

そもそも、コモン・ローとしての法の渊源である原初的法感情においては私の方が名誉の毀損を受けたのである。そのことは裁判官自身が裁判所の外に出て当事者の位置に目をおいてみるなら忽ち明瞭となるであろう。至近距離での建物の同名称に対しては、誰もが不快感をもち、異議を唱えないような者はいないのである。だからこそ日本国中でその例を見ないわけだ。そこには当方が相手方の「植民地」のようにされたという不快感が含まれる。実際に「兄弟(一族)で経営されているのですか」「どんな御関係ですか」といった無用の質問に悩まされる(特に新しい入居者はそうだ。いちいち手間をかけて説明せねばならぬ)それまでは「リヴェールの〇〇です」と言うだけで簡単に出前の注文などもすんでいたが、今は間違えられないように、注意の言葉を加えねばならない。「灯油の配達が向こう側の道路脇に置かれた」という事例は、私自身が金額が少ない品なので、うっかり軽視して記載しなかったが、普通の主婦にとって、それを運ぶのは汚れるし、かなり重い容器であることを後になって知らされた。しかもこのような誤配にたえず気遣って注意していなければならないという。こういうことは「アメニティの権利」の侵害でなくて何であるのか。しかもこのような些細な迷惑はこれから三〇年以上の長きにわたって散発的に続くのである。しかも居住者が変わる時にそれは多発するから、その度毎に注意を加えねばならない。従って一つ一つの迷惑事項を見るのではなく、それらの集積が問題なのである。「名称使用の利益」が侵害されていないという「判決」は、余りにも実情にうといものであり、裁判官とは余程変わった人種である、と結論したくなる。「判決文」は日常生活の実情にわざと目をつぶろうとしているものの如くである。これを比喩で言うなら、「平和主義」を掲げながら、その渊源である「流血への嫌悪感」は認められない、とする狂った論理でみる。ここに実証主義法学の最大き弱点が露呈されいると考える。基礎である根源を欠いているのである。

なお、蛇足ではあるが、三つの付論をつけ加える。

第一は「不正行為(競争)の防止」たついては、現在、世界的に厳しく規制しようとする傾向があることである。原審の小篠弁護士は国際法の研究者として専らこの面を重視されたのであった。

第二は、今日、職業や身分を不必要に問わないことが、次第に原則になりつつあることである。つまり私のような答弁拒否は社会的に一般化されはじめている。判決文(原審)の中に、もうとっくに引退している人の過去の輝かしい業績が長々と掲げられているが、これは時代錯誤も甚だしい。これでは「法の下の平等」を裁判官自身が不必要に侵害していると言っても過言ではなかろう。

第三に、歴代の最高裁長官はその就任時に必ずといっていいほど、法律と国民感情との乖離を縮めねばならないという主旨のことをのべておられる。それは時代の要請であるが、本件はまさしくその乖離の最たるものであって甚だ遺憾であると考える。

要約するなら以上の私の主張には何らの特殊な見解を含むものではない。たんに「法の精神」による「公正な裁判」を求めているだけである。

最後に、この意見書は川村弁護士の意向とは全く独立に記されたものであり何らの示唆も資料も修正もうけていないことを付記する。

平成八年一一月一五日

東京都武蔵野市西久保三-二一-八

菊川忠夫

最高裁判所 殿

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